Behold the Man / Michael Moorcock





イエスのマスクを被ったアルルカンの悲劇



17冊目。
Michael Moorcockの”Behold the Man”(1967)を読了。 
邦題『この人を見よ』でハヤカワ・SF・シリーズでも出た後、ハヤカワ文庫SF収録も現在は絶版のよう。

独特のヒロイック・ファンタジーが有名な作家だが、実は60年代初頭の”New Wave”運動の一翼を担った雑誌”New Worlds”の編集長を務めていたようで、自身も実験的な作品を書いており、本作の原型となった中編は1967年のネビュラ賞を受けている。ファン投票によって選ばれるヒューゴー賞とならび称されるネビュラ賞は、作家・編集者・批評家などによって選ばれる、いわばプロをもうならせる作品ということだろう。長編部門の受賞作のリストを眺めてみると、60年代はFrank Herbert”Dune”やSamuel R. Delany”Babel-17”、Daniel Keyes”Flowers for Algernon”など納得の名作に混ざって、William Burroughs”Nova Express”やPhilip K. Dick”The Three Stigmata of Palmer Eldritch”など、なかなか強烈な作品もノミネートされている。本作はネビュラ受賞中編を長編化した一冊であり、これもまた強烈な一冊だ。

さてアウトライン。
Karl GlogauerはDarley Grange Mental Hospitalに勤務する20代の精神科医だった。彼はA.D.29の中東、イエス・キリストの時代のエルサレム近辺にタイムマシンでたどり着く。壊れたタイムマシンから這い出たところ、現地の民に助けられ担架で集落に運ばれる。もうろうとした意識の中、彼はつぶやく ”I - seek - a Nazarene - Jesus”(俺は…ナザレの…イエスを…捜してる)。唐突に始まるタイムトラベル物語は、聖書の時代に降り立った後の彼の行動と、自身の過去のフラッシュバックが交錯しながら、なぜタイムトラベルに至ったのかまでの経緯が少しずつ明かされていく。

Karl Glogauerのフラッシュバック。
父は7歳の時には蒸発しており、母が女手ひとつでKarlを育てていた。彼の回想は1949年、9歳のクリスマスに遡る。聖公会系の厳格なミッションスクールに通う彼は、フェンスに両手をネクタイでくくりつけられ磔刑のキリストにされるといういじめを受けていた。ワイト島のでのサディスティックなサマーキャンプ、聖歌隊での性的な虐待体験が、徐々に彼の中のイエス・キリストに対する歪んだ愛情を膨らませていった。また、性の目覚めによる初々しくも痛々しい体験を通し、銀と木の十字架に性的なオブセッションを抱くようになる。15歳で自殺未遂をはかり、17歳でケルトの異教や戦闘的なアンチ・クライストの運動に参加。神秘主義や魔法などを扱うブックショップ”Mandala”を出入りするうちにユングの思想にも傾倒していく。”Mandala”では”Jungian(ユングの精神的理論)”の研究会が定期的に開かれ、そこにはタイムマシンを研究しているという風変わりなJamese Headingtonと出会うことになる。
やがて精神科医となって病院に勤務するようになると、10歳年上の女性Monicaと出会う。彼女もまた有能な医師でソーシャルワーカーでもあった。彼女はイエス・キリストに対する歪んだ愛情と自己憐憫に浸るKarlに常に手厳しく、徹底した無神論によって彼を論破しようと試みる鼻っ柱の強いタイプだった。彼女はそれが彼の性格に起因するのだという本質を看破していた。

”Guilt and fear and cowardice and your own masochism.
You could have been a brilliant psychiatrist, but you’ve given in to all your own neuroses so completely...”

(罪と恐れ、そして臆病さ、そしてあなた自身のマゾヒズム。
あなたは秀逸な精神医であったかもしれないけれども、あなたは自分自身のノイローゼに完璧に従ってしまったわけね…)
”Shut up!”
(黙れ!)

さらに追撃するように彼女の無神論をぶつける。

”How you can bother to wonder about on obvious syncretistic religion like christianity (略)”

(どうしたらキリスト教のような、明らかに混合的な宗教についていちいち思い悩むことができるの?)
”It doesn't matter!”
(そこは重要じゃないんだ!)
”Not to you in your present state of mind.”
(あなたの今の気持ちが、でしょ)
”I need God!”
(俺には神が必要なんだよ!)

Monicaの女性との不貞関係を告白され、彼女との愛僧関係性が壊れたとき、彼は逃げるようにJamese Headingtonの元へ行き(Headingtonはゲイで、Karlは一時距離を置いていた)のタイムマシンでA.D.29に飛んだのだった。


A.D.29
”I - seek - a Nazarene - Jesus”
彼は怪しまれないようエジプトからの旅人と偽ってユダヤ式の名前”Emmanuel”を名乗り、博物館のこ古文書で学んだ”Aramaic”(アラム語)を駆使してかろうじてコミュニケーションが取れた。彼を助けた民は、実は”essene”(エッセネ派)と呼ばれる禁欲的で平和主義のユダヤ教の集団で、リーダーはバプテスマのヨハネであった。そう、イエス・キリストに洗礼を授けた預言者で、福音書中の重要人物である。ヨハネらはKarlのタイムマシンに乗った出現が、聖書に預言されている”chariot”に乗って現れるであろう ”Adonai”(主)のことではないかと見て、畏れををもってもてなした。Karl自身も新約聖書の記述がどこまで事実であるのか訝りながらも”essene”と行動を共にし、次第にバプテスマのヨハネが、ユダヤの地を実効支配していたローマに対する抵抗勢力のリーダーであることに気づく。そうした中、彼は少しずつ待望のイエス・キリストの生家のある街、ベツレヘムへと近づいていくのであったのだが・・・




本作は
要所要所で福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を中心に、メシアにまつわる旧約の書(ゼカリヤ書、ヨブ記)の一節などが挿入されている。といっても、たとえば「洗礼者ヨハネから洗礼を受ける」「40日40夜の悪魔との戦い」「過越の祭の日、ロバに乗って入城」など、子供が日曜学校でも聞かされるような初歩的イエス・キリストの生涯の部分であるので、ああ、おなじみのあのエピソードをね、という感じなのだが、聖書の知識が無いとおそらく後半の緊迫した感覚もなかなかつかみづらいのではないかと思う。

後半、Monicaとの問答のフラッシュバック、そしてエルサレムでの実体験、それを軸に展開されるKarlの精神の彷徨は、信仰の本質を問うたり、キリスト教のドグマの是非を(まじめに)考察しているというよりも、究極まで煮詰まった強烈な”自己愛”に絡め取られた道化の姿、イエス・キリストのマスクを被った悲劇的なアルルカンの物語と見るほうが正しいだろう。ケン・ラッセルの映画のようにインモラルではあるが、あくまである種実験的なファンタジーである。本書を読んだ敬虔なクリスチャンは、失笑することはあっても案外冒涜とまでは感じないのではないだろうか。

万人にお薦めできるたぐいの物語ではないが、たしかに”New Wave”の1ページを飾るに相応しい、内省的な人間の精神の叫びを描いた興味深い1冊と言えることは確かだ。

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